中国de音楽4

中国在住の日本人音楽家による、日々の日記です。

言葉にできない

 日曜日、広州は曇り、気温はグッと下がって 14度。最近ジェットコースターみたいな気温変化が続いているので風邪を引かない様にしなきゃ。

 朝 8時過ぎに自然起床。昨夜も 2時過ぎに寝たので睡眠時間は変わっていない。
 午前中はダラダラとネットみながら過ごし、お昼くらいに某ミュージシャンの訃報が入って言葉を失った。

 ワタクシ、27歳の冬に、ちょっと縁あって麻布十番にある某音楽事務所にお世話になった事があり(ずっと夢だった音楽業界を目指して脱サラし、マニピュレーターのボーヤとして入社したのだ)本日の訃報は、その会社の社長だった方である。

 ワタクシは、当時は青二才で、ギョーカイの慣習も何も全く知らず右も左も全く分からぬまま、最先端のしかもアコガレのミュージシャンが経営するその事務所に入れた事で半ば有頂天になっており、夢と希望にワクワクしていたのだが、実際に入ってみると要するにボーヤなので、使いっ走りである。マニピュレーターという言葉がまだあまり一般的じゃなかった頃に、アチコチのスタジオに倉庫から機材を運んでセッティングをし、作業中は基本的に外で待機したり、事務所に戻ったりして、仕事が終わる深夜になってまたハイエースに乗って機材を撤収〜回収する仕事である。ほぼブルーカラーワーカー状態。前職はプログラマーだったので基本綺麗なオフィスで綺麗な椅子に丸一日座って過ごしていたのだが、真逆の生活が始まったのだ。

 それでも、毎日接するのは世界的にみても最新の機材類、フツーに新車が2台くらい軽く買える様な機材から、下手したら家が買えるくらい高価な機材等もあり、そんな機材を目にしたり触れたりする事ができる環境は夢みたいで、キツかったけど楽しく過ごした数週間だった。

 しかしここで人生の転機がやってくる。

 この事務所は芸能事務所とマニピュレーター派遣業の2本柱で成り立っていて、ワタクシは後者に属していたのだが、1993年の年末、当時事務所サイドの某アーティストマネージャーさんが結婚退職をする事になり、急遽その後釜を用意しなければならない事態が訪れたのだ。年末年始で事態は急を要しており、事務所サイドの偉いさん方は躍起になって後釜を探したが見つからず「そういえば 1Fに4大卒で結構トシとった奴が入ってきたよな?あいつ試しに使えね?」といった話になったらしい。そこである日、事務所に呼ばれ色々と説明され戸惑ったが、当時はワタクシにも『シタゴコロ』が有ったので「ひょっとして事務所側に居た方が、自分を音楽家としてアピール機会が増えるかもしれない!」みたいな甘い考えが芽生え、結構あっさりと引き受けてしまったのだ。自分の性格を顧みずにね。。。

 しかし、事務所に勤務し始めて直ぐに後悔したのは言うまでもない。そもそもワタクシ偏屈な人間だし、ミョーな所だけ生真面目なので、性格的にノリが合わないのだよ。。。確かに重たい機材を車で運ぶ様なキツさは全くなく、コーヒーのいい匂いが香る綺麗なオフィスで、綺麗な椅子に座って仕事ができるのは有難かったが、当時は今と違って机に一人一台のPCなんて無くて、机の上には紙の資料とスケジュール帳と電話機のみなワケさ。

 社長は殆ど事務所には来ないし、事務所はいわゆるギョーカイ人ばかりで、ワタクシからみたらすごく軽いノリの人に見えたし、彼らが交わしている高級な!? 冗談が全く理解できなくてホント辛かった。それに慣れない電話番?みたいな仕事ばかりを続ける毎日である。夢と現実とのギャップを痛烈に感じて、一週間くらい毎日ずっと「コレってヲレが望んだ世界なのかな?」と悩んだのは言うまでもない。

 もちろん、電話番だけじゃなくて、途中に色々と使い走り的な仕事が入るのだが、付き添いで某大手レコード会社に行ったり、某著名アーティストの打ち合わせに先輩と同行したり、某大型スタジオでのリハーサルに立ち会ったりすることは有ったが、結局周りの人は、自分という存在を『人としてすら認識していない?』風な感じで、(まぁそりゃそうだ。アーティストマネージャー担当が「実は自分も音楽やっててホントは音楽家志望なんです!」なんて言ったって、鼻で笑われるに決まっている) しかし当時のワタクシは青かったので、全然そんな風には考えてなくて、もっとキラキラしててチャンスがある世界だと思っていたのだ。

 今は大人になって色々な経験を積んできたから理解できるよモチロン。

 あの世界には、初めから『アーティスト・マネージャー業を本気で目指して』この仕事を選んでやってるヒトばかりなのだよ。基本的に「自分からアピールしまくって、アーティストや関係者に顔を覚えてもらってなんぼ!」という世界なのだよ。ワタクシみたいな半端な気持ちで『なりゆきで』始めた人間は、周りから見ても迷惑なのだ。何をして良いかも分からず、ただボーッと突っ立ってるだけ?の人間に誰が気を遣う?「なんだ?あいつ」ってなるのは自明だ。

 でも当時は、自分がアコガレた世界が目の前に広がっているのに、自分はその世界の一員ではなくて『置き物』に過ぎない…という事実に発狂しそうになり、毎日胃が痛くなるくらい悩む日々を過ごした訳さ。
 本当今思えば『青い』ね。笑っちゃうほど…。 でも 27歳という中途半端な年齢で何もかもを捨てて飛び込んだ世界は、自分が想像していた世界とはあまりに違い過ぎた。

 『音楽がやりたくてサラリーマンを辞めて、給与も半分くらいになっても尚、あの業界に飛び込んだんじゃなかったっけ?』

 答えは自明である。結局、年明け 1994年の1月4日に事務所の部長に辞意を表して辞める事にした。またマニピュレーター派遣に戻るという選択肢も有ったが、当時はヤワだったので、なんか『心が折れて』しまったのだよ。完全に。。。当時の関係各位に派手に迷惑をかけてしまう事を承知の上で『逃げ出した』というのが正解だな。酷い奴だよヲレって。まったく…。当時の先輩たちに全く顔向けができないので、その後の数年間はコソコソ隠れる様に暮らしたのは言うまでもない。


 さて、くだらない昔話が過ぎた。こういうのを老害って言うんだよね?きっとw
 でもまぁコレがワタクシの人生の 2度目の挫折の全容である。約 30年近く前の話なのでそろそろ時効だろうし、どっかに記録しておくのも悪くない。

 そんなワケで、正直に言うと当時の良い思い出は全く無かったのだが、それでも社長とのやりとりは今でも覚えている。最初は中々ココロを開いて下さらない方で、殆ど目を合わせて貰えなかったが、それでも機嫌が良いときには話しかけてくれた。ちゃんと話をしたのは多分数回っきりだったが、ハイライトやワインやフランス車の話をしたのは今でも鮮明に覚えている。(きっとご本人はお忘れだろうが)
 あの時、少しでもワタクシに寛容な心と忍耐力があり、あの仕事を続けていたらまた違った人生があったかもしれない。でも、きっとコレで良かったのだろう。

 何はともあれ、間違いなくワタクシの人生で、一番最初に憧れた偉大なドラマーの一人だったのは間違いない。そんな方がこの世を去ってしまったのだ。とにかく上に書いた様な事が一気に雪崩の様に頭の中に押し寄せてきて言葉が全く出せずに、昼間からひたすらビールを飲み続け、夕方にはベロベロになってしまった。

 ワタクシの人生に色々な気付きとキッカケを与えてくださり、本当にありがとうございました。向こうで美味しいワインをたくさん飲んでください。RIP.
にほんブログ村 にほんブログ村へ
にほんブログ村