中国de音楽4

中国在住の日本人音楽家による、日々の日記です。

福ちゃんラーメン

 あっという間に金曜日。上海は晴れ。噂によると昨日が44度。今日が43度だったらしい。知らない人は「ホントかよ?どーせ大袈裟に言ってるんだろ?」って思うカモしれないが、騙されたと思って30分外を歩いてみて欲しい。頭クラクラしてきて呼吸困難になるから(気温だけのせいじゃないカモしれないケド(笑))
 さて、今日も何だかバタバタだった。研究開発無き所に技術の発展は無い。ゲーム業界も然り。新しい事をやる時はトライ&エラーの繰り返しである。時間が無くてもヤラネバならぬ。根拠や実証無き所に「次」は無いからね。
 そんなこんなで、新調したD5200を使ったFinalCutProXとの戦いは続く。D5200は非常に良くできたカメラなのだが、やっぱりクセがあるので、まだGRの様には使いこなせない。彼も私にまだ心を開いてくれない感があるので、もう少し時間をかけてゆっくりと付き合って行こうと思う(笑)

 昼過ぎに妻から連絡があり、今日は用事があるので夕飯ナシ!との事だったので、仕事を終えてから一人で久々に长乐路にある『福ちゃんラーメン』に行って来た。周りの店はほぼ全て変わっているのに、この店だけは昔から全然変わらない。

 皆にまたカロリーの事を言われそうだったので、メニューを選ぶ際に一瞬悩んだが「やっぱりココに来たら醤油でしょう!」っつー事で醤油を頂いた。お椀が小さいから多分大丈夫(笑)

 ココのラーメンは、美味しいとか不味いとか以前の問題で、ワタクシの記憶の琴線に触れる『何か』があるのだ。
 それは、小学生の頃に通っていた日本能率進学研究会という塾の大船校で、授業と授業の合間に頼んでいた近所のラーメン屋の味にそっくりだからカモしれない。確か当時300円だったかな?
 悪友の影響で(まだ小学校5年生だったクセに)超生意気にも、近所のラーメン屋に電話して『時間を指定して』出前を取っていたのだ。確か午後7:30からの15分間の休み時間だった記憶がある。
 でもラーメン屋もプロ根性があるのか相手が小学生でも1分と遅れた事が無かった。 だからイツでも出来立ての超熱いラーメンを届けてくれたので、口の中を火傷しつつもスンゴい慌てて喰べたのだ。故にマトモに味わってない筈なのだが、不思議なモノで、あの当時の味が記憶の隅にずっとあって、この福ちゃんラーメンを食べる度に当時の事をうっすらと思い出すのだ。

 そう言えば日能研の大船校では、確かワタクシ第一期生だった記憶がある。今でも覚えている学籍番号。小学校3年の時初めて入学した時が NF30039、そして4年生で NF40039に代わり、5年はNF50039、6年は NF60039になっていた。ひょっとしたら39番目の入学生だったのかもしれない。

 国鉄大船駅から仲通りを通って結構奥まった場所にあり、確かキャバレー『ホンコン』? 違うなアレは仲通りだ、キャバレー『ロンドン』? んー違うか。そうだ確かキャバレー『フルフル』だ! それの真横にあった。今思えばスゴい時代だ。キャバレーと同じビルに学習塾が入っていたのだから(苦笑)
 入り口にはチンピラみたいな格好をした無口なお兄さんがいつも居て、階段の上は赤やらピンクやらの派手な照明が点いていた。子供心に『キャバレーって何だろう?』ってずっと興味津々だった。
 そう言えば、夕方、塾が始まる前(確か 5:00PM前だったかな?)に、友達と一緒に勇気試し?じゃないが、まだ電気が点いていないキャバレーの階段の上まで探検に行ったなぁ…。

 今思えば実に素敵な70年代だった。バブルの入り口、あの頃の日本のお父さん達はホントに格好良かった気がする。嗚呼ニッポンの70年代。いいドラマも沢山あった。『太陽に吠えろ』『俺たちの朝』『ゆうひが丘の総理大臣』『俺たちは天使だ』…等々。。。。真っすぐでダサくてキザ。男が気障でいられた最後の時代。
 自分もすっかりオヤジになってしまったが、あの頃と全然違って凹む。
 どんなに金が無くても「何とかなるさ」と上を向いて格好付けていたあの頃の親父達を見習いたいものだ。やっぱ男は幾つになっても多少は格好つけなきゃね(笑)